エッセイ

廸薫の「タカラジェンヌが日本舞踊家になったわけ」

其の六「日本舞踊は洒落の世界・・・のお話」

何かと気忙しくなって参りました年の瀬ではございますが、皆様如何お過ごしですか?
私は先日、今年最後の講演会と稽古を済ませ、後は忘年会をこなすのみの年末となりました。 今年は何故か事のほか忘年会のお誘いが多く、生まれて始めて乾杯の発声をするという経験も致しました。

さて、今回のお話は日本舞踊の歌詞に焦点を合わせてみたいと思います。この間ある方が稽古場に私達の稽古を見学に来て、 「日本舞踊って、歌詞の通りに踊ってるんですね。始めて知りました。」とおっしゃっていましたが、 現実には歌詞の意味が理解出来なかったり聞き取れなかったりして、目に映る踊りの動きだけに気を取られるのが現状かも知れません。
本来動きだけでも何を意味しているのか、どんな踊りなのかが伝わるべきなのですけどね・・・・。 ともあれ歌詞の意味を分かって踊りを見ると、この面白さが何倍にもなる事間違い無し。

日本舞踊の歌詞は「万葉集」や「古今和歌集」等から引用されていたり、江戸時代に流行っていた流行歌の歌詞や郷土芸能の歌詞を取り入れたりと 構成は様々ですが、特徴的な所は歌詞が洒落や掛けことばで成り立っているというところです。
例えば長唄「藤娘」の歌詞を例にとるとこんな具合です・・・・。
その前に「藤娘」そのものの説明を少しさせて頂きますと、舞台は琵琶湖に近い近江国(現在の滋賀県)の大津。 大津絵の藤娘が可憐な娘姿で現れるわけですが、この大津絵とは、江戸時代の初期に近江(滋賀県)の大谷・追分辺りで描き売られ流行した民画で、 仏像・民間信仰・伝説などを描いた絵のことです。元禄時代には京都周辺で裕福な娘が豪華に着飾り、人目に立つのを競い合い、 恋狂いの物見遊山に近郊の寺社へ出かける風習があったそうです。そんな恋に狂った享楽的な娘の外出姿の風俗を描写したものが一番人気の「藤娘」の絵で、 それをモデルにした踊りがこの「藤娘」なのです。というわけでその歌詞の一部を抜粋致しますと・・・・。

「男心の憎いのは 外の女子に神かけて 粟津と三井の予言も 堅い誓いの石山に  身は空蝉の唐崎や 待つ夜を他所に比良の雪 解けて逢瀬のあた妬ましい  ようもの瀬田にわしゃ乗せられて 文も堅田の片便り 心矢橋のかこち言」

これは「藤娘」の主人公の娘の心情を告白する「くどき」と呼ばれている部分ですが、よく読むとこの部分には近江八景(歌川広重の作)の 地名が読み込まれている事に気が付かれたでしょうか。

  1. 粟津の晴嵐(あわづのせいらん)=神に誓い他の女の人と逢わず
  2. 三井の晩鐘(みいのばんしょう)=見ないという約束の言葉(予言=鐘ごと)
  3. 石山の秋月(いしやまのしゅうげつ)=石のように堅い誓い
  4. 唐崎の夜雨(からさきのやう)=まるで蝉の抜け殻のようにからっぽの身
  5. 比良の暮雪(ひらのぼせつ)=夜になり待っていても他所へ行き(雪)
  6. 瀬田の夕照(せたのせきしょう)=よくも私をいい気にさせて、乗せた(せた=舌=旨いこと)
  7. 堅田の落雁(かたたのらくがん)手紙を出しても一方通行の片便り(雁=手紙)
  8. 矢橋の帰帆(やばせのきはん)=私の心だけが矢のように逸ると愚痴る

もっと分かりやすく現代語訳に直すと、「ほんとに憎らしい。他の女性には見向きもしないって神様に誓って固く約束したのに、 夜になっても他所の女の所に行ったきり戻らない貴方を待つ私はまるで蝉の抜け殻のよう。
二人の雪を溶かすような熱い逢瀬を思うと妬ましくてしょうがない。騙された私も私だけどよくもいい気にさせてくれたわね。 便りを出しても返事はないし、その気にさせるだけさせといて、今更押さえられないこの思いをどうしてくれるの。」
とこんな具合です。現代語訳に直すとかなり露骨な感じになってしまいますが、昔の人はこんなドロドロした嫉妬さえも、 この「藤娘」が大津絵から題材に採った物で、滋賀県が舞台で有るという事を上手く取り入れ、有名な絵の題名に擬えてさらりと娘の胸のうちを表現したのです。

また、歌詞の冒頭の部分に「~愛しいと書いて藤の花・・・」という部分があるのですがこれには二つの意味が有り、 1つは読んで字の如く藤の花が愛しいという意味。もう1つは「い十(とう)し」つまり、「い」を縦に10回書いてその中央に長い「し」を書くと 藤の花になるという絵文字の意味なのです。このように日本舞踊の歌詞は、まるで漆を何回も塗り重ね美しい光沢を醸し出すのと同じように、 1つの歌詞に何重にも意味が込められているのです。
実は歌詞だけでなく、大道具等舞台装置もそれぞれの演目の物語を象徴する様な設えになっていることが多く、この「藤娘」の場合にも緞帳が上がると正面に、 大きな松の太い幹に絡んだ藤の花が垂れ下がっている大道具が見えるのですが、これは男(松)にしどけなく絡んだ女(藤)というこのストーリーを象徴的に 捉えた物に他なりません。

江戸時代に発達した歌舞伎の舞踊の分野から、明治時代になって独立した日本舞踊ですが、 そのせいか江戸時代の洒落の文化に大きく影響を受けていることは否めません。
日本舞踊の動きだけに気を取られずに、舞台上の総ての事柄に関連性を持たせて見ると、思わぬ発見があるものです。
総てに理由があり総てに必然性がある。それが日本文化なのです。

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