エッセイ

廸薫の「タカラジェンヌが日本舞踊家になったわけ」

其の二 「所作と心は表裏一体のお話」

25ans<ヴァンサンカン>12月号(407ページ左上)に、小っちゃ~くですが私のコメントが掲載されています。 編集者の方が小さな記事ですが・・・とおってしゃっていましたが、本当にここまで小さいとは正直思いませんでした。 でもちゃんと写真も載っていますので、書店で立ち見・・・いや、良かったら購入してくださいませ。(編集者の方ゴメンなさい)
なんで、25ans<ヴァンサンカン>のような西洋趣向の権化(重ね重ね編集者の方ゴメンなさい)のような雑誌に、 日本文化を連呼している私が小さいながらも載ったのか不思議に思う方もいらっしゃると思いますが、実はある方を通じて一ヶ月程前でしたか取材を受け、 最近25ans<ヴァンサンカン>の読者達が、自分たちの有り方に疑問を感じ始めているのだという興味深~いお話を伺いました。 動きや所作が美しくない自分たちに気づき始め、その原因が何なのか知りたがっているという事でした。取材に来られた女性の編集者本人も行き詰っている様で、 そのような傾向をどの様に扱ったら良いのか、途方に暮れていると言った風でした。一時間程話をした中で「所作と心は表裏一体」という言葉が 特に印象に残っていた様で、今回の記事は取り敢えず西洋趣向の池に和の小石を投じてみようという形になりました。

さて、本題に入りますが、着物の場合は、美しい立ち振る舞いのポイントの総てが日本舞踊に集約されていますが、 洋服やドレスの場合も同じようにダンスやバレエなどの西洋舞踊の動きの基本が出来ていると奇麗に見えるのです。 立ち方、歩き方、手の使い方、袖や裾の扱い及び捌き方は、着物、洋服に係わらず、大きなポイントになる部分だと思います。
いずれにしても全くトレーニングが出来ていない身体をいくら飾り付けても、「板につかない」のは当然でしょう。 町ですれ違う人達を見ていても、年齢性別に関係なく奇麗に歩くことの出来る人は、残念ながら殆どお目に掛かる事が有りません。 トレーニングをする事によって正確な姿勢で立つ、座る、歩く為の筋肉が鍛えられ、同時に美しい所作の為のテクニックを学ぶことによって、 相乗効果となる訳ですが、もっと基本的かつ大切なのは「意識をする」事。総ての事柄に通ずるものだと思いますが、これが中々難しかったりするのです。

伝統芸能の稽古場には、基本的には鏡が有りません。鏡の無いお稽古場で先生の動きを真似る所から始まります。 自分がどんな格好をしているのか、さっぱり見えない状態で、只ひたすら先生の動きを真似るのです。踊りだけで無く礼儀や作法の部分でも先生をお手本に、 稽古場や舞台上で起きる総ての事を学んでいくわけですが、始めからそれがどういう意味を持つのか、なぜそうしなければならないのか、 すべて理解をできるわけでは有りません。
何度も何度も真似ていく内に意味を理解し、理解した所で自分の物になるはずなのですが、心で理解しても未熟なうちはまだそれを形に表すことが出来ません。 形と心の逡巡を幾度も繰り返し、時が流れて行くのと共に少しずつ身についてくる。そして、ようやく初めて自然な形、所作として表に表れて来るわけです。 所作と心がどちらもおなじレベルで完成するのは、そう簡単なことではないのです。でもそこまで来てから始めて自分の感性が加味され、 自分のオリジナリティーと言うものが生まれてくるわけですから、ほんまに芸の道は厳しおす。
稽古の時、師匠によくご注意頂くのは「作為的な動きは不自然で綺麗じゃない」という言葉。水が流れるように、雲が沸き立つように、炎が燃え盛るように、 風がそよぐように、人の心を捉えて離さない自然の美しさを自分の心と身体の中に取り込めたらと思います。

「美は一日にして成らず」と言いますが、正に其のとおりだと思います。
まずは美しいものを美しいと、美味しいものを美味しいと感じることの出来る健康な心と身体が基本です。 ともあれあんな小さな記事では到底伝えることの出来ない深いテーマだってことに、編集者の彼女はどこまで気付いているのかしら?

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