エッセイ

廸薫の「タカラジェンヌが日本舞踊家になったわけ」

其の一「着物と美しい所作のお話」

「宝塚」・・・と言うと、男装の麗人が大きな羽を背負って、華やかなライトを浴び、歌ったり踊ったりしながら大階段を颯爽と降りて来る姿を、 イメージされる方も少なくないと思いますが、何を隠そうこの私めもご多分に漏れず、在団中には三千人劇場と言われる大劇場に立ち、 オーケストラの奏でる洋楽に合わせ、洋舞と言われる類の踊りを披露しておりました。しかも男役も女役も経験したという変り種。
また、宝塚では「日本物」と呼ばれる、着物を着て日本舞踊らしき踊りを踊るショーも有るには有ったのですが、今思えば日本舞踊とは程遠いものでした。
そんな私が何故日本舞踊家に・・・?国外の文化、芸術に身近に触れる機会が有れば有る程、最終的に私を魅了して止まなかったのが自国の文化、日本舞踊でした。 そんな日本舞踊を通して、日本文化の魅力を私なりにお伝えしていきたいと思います。

記念すべき第一回は、日本舞踊とは切っても切れない「着物」の事をお話しさせて頂きたいと思います。
成人式の時、何本もの紐でぐるぐる巻きにされた小包のようなお嬢さんたちが、最近の流行なのか髪をバサバサにセットし、 外股で町を闊歩している姿を見掛けますが、その度に思わず溜息を漏らしてしまうのは、私だけでしょうか?それも「賞賛」の溜息ではなく「残念」の溜息をです。 日本伝統色の見事な染めの着物を着た、美しいお嬢さんで有れば有るほど、その残念度が倍増します。着姿が様になっていないのです。 着物が動きに付いて行かないのです。長い袖の処理に困って、荷物と一緒に抱え込んでしまって居たり、動くたびにぶんぶん振り回したり、裾が肌蹴ていても平気だったり、 腕が肘までニョッキリ出ていたり・・・。書き出すときりが有りませんが、このような場面に出くわす度に、着物が身についていないとは、 こういう事を言うのだなと改めて感じ、着物を着たら最低限守らなければならない事を、教える人が本当に身近に誰も居ない、という現実を再確認させられるのです。

何を隠そう、この私も日本舞踊を専門でやって行こうと決めた頃、先生に「貴女は着物が身に付いていないからね。」とショックな事を言われた事が有るのです。 着物が身に付いていない舞踊家なんて私のイメージの中では有り得ない存在でしたので、かなりのショックを受けながらも負けず嫌いの私は、 その日から可能な限り着物で通す日常生活を送ることにしました。そうする事によって嫌でも着物を着て美しく動く事を常に意識し、 さらには何度も反復練習する事が出来ると思ったからです。立ち方、座り方、歩き方に始まり、手の使い方、袖の扱い、裾捌き、襟を整えたり、 帯の垂れが上がっていないか等々。お陰で、着物姿を美しく見せる為のポイントが、洋服に比べるといかに細部に渡って細やかな心配りが必要か、 理解する事ができたのです。そしてそれらが、如何に日本舞踊のテクニックの中に網羅されているかという事も。

着物は自分で着られる事が原則ですが、自分で着られるだけでは、 美しい着物姿は望めませんし、華道や茶道を習っているだけでも、着物を着た時の美しい所作を 習得する事は難しいのです。
着物に限らず、ドレスもきちんとトレーニングを受けた人の動きは、背筋がスキッと伸び、 優雅で洗練されていてとても美しいと思いますが、 着物はさらに着ているだけでは美しく見えない代物だと言う事を知って頂きたいのです。
美しいはずの着物が、袖を通した途端に美しく見えなくなるなんて、 本当に勿体無いと思います。日本人自らが自国の文化を汚すような行為は決して有ってはならない事だと思います。

最近、和装の結婚式や日本古来の黒引きの花嫁衣裳をお色直しで着るお嬢さん方が増えて来ているそうですが、 白無垢姿になる日までに、最高に美しい花嫁になれるよう、 最低限のトレーニングをしてあげられるようなシステムが出来ると良いのにと思います。 自分で褄を持てない様ではね・・・と老婆心ながら私はそう思いますが。

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